作者名 | 作品の分類 | ページ数 |
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山本幸生 | 小説 | 196 |
ISBN | 書籍サイズ | 定価(税込・円) |
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978-4-86420-263-3 | A5 | 2,310 |
概要 黙示録的な独特の文体を有する作家・山本幸生による第四の存在論的小説。『山へ入る』『古生物』『ひも』『ケーキ』『ドーム』という5つの作品からなる中短編集です。 (著者コメント) 今回の作品(群)は、明らかに「一線」を越えてしまっているもの、であると言えるだろう。つまりそれはもはや人間が読み得る(理解し得る)限界を通り越してしまっているかもしれない、ということだが、これは(著者が考えるところの)「現実をその一部として完全に包括するところの構造」の追求の先にある必然的な「到達地点」であり、すなわちそれは、「現実世界」がトータルには理解不能、ということを「理解」するための不可避な「拡張」(表現)である、ということだ。 本書における各作品にもそれぞれストーリー?というか、「話の展開」というものは存在するが、本書の題名通り、それらは基本的に、表面的にも内部的にも「非連結」であり、各部分が完全に「分解」されていると同時に、全ての部分が「拡張された」領域の中において、一つの凝集体として「集積」している、という、それ自体が「不可能構造」の内部に埋め込まれた形でのそれ(=ストーリー?)であると言えるだろう。 思うに、何かが「わかる」ということの根本的な構造は「A=A」すなわち、あるものが「何であるか」が(少なくともイメージ的なレベルにおいて)把握できる、ということである。他方「わからない」というのは、そこに確かに何かはあるが、それが何であるかが把握できないということで、要するにそれは「A≠A」という状態であると言えるだろう。これはつまりAという対象が絶えず自己を創造しながら存在しているため、それ自身が常にそれ自身と異なるものとしてしか存在し得ない、ということである。 私の考えとしては、A≠Aというのが「存在の根本構造」であり、A=Aは、その特殊な場合の抽象的な「モデル化である」ということなのであって、作品の構造としても、全体としてA≠Aでありつつ、その内部においてA=Aが点滅している、という「もの」にしたいと思っている。 もっとも、我々の「常識的」感覚としては概ね「A=A」であるわけであり、それを全てにおいて「A≠A」を「原理」として分解する、というのはそれ自体一種の(極端な)抽象化であるわけだが、フィクションであるからこそ、そのような「極限状態」の表現というのが可能であり、かつ(それを通して)「現実世界」そのものを全体として「処理」していくことが可能になる、という点が「著者」としては重要なわけである。 そしてまた、その「拡張された現実世界」の中において初めて「(近似的なA=Aであるところの)現実世界」そのものの構造自体が露呈されてくる、という意味において「作品」としても存在し得るものと思っており、「読者」においてもそこから何がしかのことを感じ取れる、ということを期待する次第である。 |