林(ハヤシ)‐下巻‐

あるいは串刺し球根の「後可能的」な逸脱



データ

作者名 作品の分類 ページ数
山本幸生 小説 368

ISBN 書籍サイズ 定価(税込・円)
978-4-86420-307-4 A5 2,970





概要



黙示録的な独特の文体を有する作家・山本幸生による第五の存在論的小説。主人公《わたし》が迷い込み、同時に「串刺しにされた球根」のように住み着いている《林》の正体とは?



(著者コメント)

世界というのが、根本的なところで「矛盾的」であるのか、それとも究極としては何らかの形で「整合的」なのか、というのは哲学における最も根源的な問題、というよりは事実上、それぞれが明確な根拠を持ち得ない二つの「立場」である、と言ってもいいだろう。

もちろん自然科学などにおいては宇宙の「根本法則」などが真面目に探求されており、経済学や社会学といった人間関連の学問においてすら、それらを統御する「法則」というのが次々と見出され、現実において一定の成果をあげている、というわけだが、それでもなお我々は現実の様々な側面において「矛盾」を見ていかざるを得ないのであって、そうしたものが、世界の「本質的矛盾」の表れなのか、それとも、未だ未統合ではあるが、やがて「整合的に統合」されるべきものでしかないのかというのは、現時点では決定不能であり、従ってそのどちらを取るかは、各々の個別的感覚も含めたところの「立場の選択」の問題であると言えるだろう。

これについての私自身の立場としては、前者、すなわち世界は最も根源的なところで「矛盾」している、というものであり、あらゆる合理性、整合性は、全てそうした矛盾した全体の(特殊な)「局部システム」として位置付けられることになる。 しかし私の目的というのは、そのような矛盾した世界に安住することでも、それを受け入れることでもないし、またかつての哲学者たちのようにそれを「統合」しようということでもない(世界が「根源」的に矛盾しているのであれば、やはり「原理」的に統合は不可能であるだろうからだ)。

私がやろうとしていることは、矛盾の受容でも統合でもなく、その「制御」更にはそれの「操作」である。

論理学においては、「矛盾した公理からはあらゆる命題が証明可能である」とする、いわゆる「爆発律」というものが存在し、従って、矛盾した体系はそれ自体が「無意味である」ということになっているわけだが(なぜなら、全てのことが証明可能である、ということは、事実上何も証明していないのと同じことだからだ)それを現実の現象世界にやや濫用するのであれば、根源的に矛盾した「世界」からは「あらゆるもの」が成立し得る、すなわち矛盾した「第一原理」から正当な手続きを経て、全てが「創造され、接続され得る」ということになり、そして論理学とは違って、このことは決して「無意味」ではない。

なぜなら、少なくとも「人間的」な事柄に関して言えば、そもそも全ての者に共通した「命題」など存在せず、さらに言えば、生きることは何らかの「命題」に達することを目的としているわけでさえない。

「人間」においては、そのような結論としての命題ではなく、常にどこかしらの不確定な方向に向かって動き続ける「過程」のみが存在している。もしかするとその途中において何らかの「命題」に至ることがあるかもしれないが、それは、そのような過程の軌道がほんの一瞬「命題」に接することがある、ということであるに過ぎず、重要なのはその命題ではなく、そこに至るまでに描いてきた過程、そして、その後も描き続けていくであろうそれぞれの過程(軌道)であるのだ。

そしてそのような軌道は、矛盾した原理から、いやそうした原理からのみ真に自由に描かれ得るのであって、その意味で、論理学では「無意味」であるところの爆発律というもの自体が、実は「世界」における真の自由の根拠となり得る、ということである。

そしてその軌道(過程)とは、矛盾の克服でも受容でもなく、矛盾の(適切な)制御、操作によって行われるのであり、それを「個人」レベルではなく、世界大の「存在」レベルで行おうとしているのが、まさに私の作品というものに他ならない。

つまり、世界の原理が「矛盾的」であるという前提のもと(この原理は、私の表現ではA≠Aということであるが)ありとあらゆる「存在の軌道」を描き出す、ということであり、そして、それが完全な形で実現されたとすれば、まさにそこにおいて「完全な自由」が現出された、ということになるであろう。

これまでの私の作品というのは、人間の思考や文化といった、いわば「上層」部分における矛盾から発するところの「自由」というものを描いた(あるいは「作り上げて」きた)わけであるが、今回の作品では、それよりさらに下層である「自然的な世界におけるより根源的な矛盾」というところまで降りて行き、そこから「人間的な矛盾」をもその帰結として導き出す、という構成になっている。

そにために、一つ一つのフレーズにおいてより極度に微妙な「操作」が必要になってくる関係で、字面的にもこれまで以上に極めて「読みにくい」ものとなっていると思うが、「爆発律」の中においてそれぞれの「存在」が描く軌道、というのはまさに「このようなもの」にならざるを得ない、という意味において、これは「必然」である、と言えるだろう。

もちろん、実際に、現実の「問題」における対処において常に矛盾の制御や操作が可能だとは思っていないし、このような作品が、そのためのヒントになり得るとすら思わないが、「原理として」矛盾を抱える世界において、「完全な自由」というものがどのような「形態」のものであり得るか(あるいは、どのような形態のものであらざるを得ないのか)ということを「システムとして」まとまって示すことは、それ自体一つの「芸術」の在り方として意味のあるものであると信じたい。




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