村の樹に棲む魚




樹の葉が鳴っている。

なまぬるく撫でるような微風が通り抜けると、頭上に繁茂する樹木の葉がざわざわと鳴り出した。まるで生い茂る樹々の上空に、人の目には見えない透明な大河が流れているかのように思われた。樹の葉と樹の葉がこすれ合い、その共振が森全体に波打って広がりながら透明な水流を編む。その果ての、はるか彼方の名も無き村外れの崖で、それは巨大な瀑布となって轟いているように感じられた。

ここへ来る前、たしかに自分は街の中を歩いていたはずだと、樋口は思った。電車の時刻に間に合わせようと、時々、小走りになっていたことは覚えている。近道をして、次々と裏通りを選んでいくうちに、見知らぬ路地に迷い込んだのが最後、どこをどの方角に歩いているか自分でも判らなくなり、気がついたときには深い樹木に包まれた異空間へ辿り着いていた。新時代の時空とは明らかに歯車が噛み合わない、ひどく寂れた寒村がそこに広がっていた。

汗を拭きながらしばらく歩いてみたが、まったく人の気配がない。道端には投げ捨てられた空椀が泥を被って静止している。ところどころに木造の廃屋があり、文字の読めない錆び朽ちた看板が数枚残されていた。数代前の古い農具が野晒しになった耕作放棄地の向こうに、丘の上の墓地が見え、それもすでに森の繁茂に呑み尽くされていた。空き地に獣の死肉が横たわり、それを啄みに来た鴉の群れが奇声を発しながら飛び去っていく。その先に、夏草に覆われて細く消えかかった土の道が、蛇行しながら森の奥へ伸びていた。

引き返そうかと思い悩んだが、今来た道を順序よく溯って思い出せる自信もない。とにかく、この近辺の地理と現在位置を確かめなければ、どうすることもできない。だれか村人に出会うことを期待して、樋口は少しずつ森の奥へ踏み込んでいった。

鬱蒼と茂る原生林の奥に入ると、真夏とは思えないほど冷たく湿った大気に包まれる。一歩進むごとに、かさかさと草の陰を小動物が這いまわる音が響き、姿こそ見えないが蛇と蛙と野鳥と虫の気配が重なり合って、それらのざわめきが樹の葉の波と共鳴する。いつのまにか深い森の暗闇の中で、滝壺に身を沈めたときのような轟音が樋口の耳に谺した。

樋口は不意に自分の腕時計を見て、背筋に寒気を覚えた。そして、たちまち得体の知れない奇妙な不安感に襲われた。先刻、街の中を急いでいたときに見た、夕方六時ごろを指す時刻表示の残像が瞼の奥にまだ残されている。ところが、今、樋口の時計は午前十時三〇分を指している。森の中はうす暗いが、木洩れ日は真昼の勢いで、太陽は高い。どう考えても夕刻であるはずがなかった。


しばらく進んでいくと急に森がとぎれた。明るい陽射しが差し込む、赤土むき出しの平地に出た。

古酒の匂いがする。辺りをよく見渡すと、平地のほぼ中央にひときわ大きな樹木が一本だけ、塔のように生えている。それはいかにも神樹らしく、その樹を囲むような形を成して、蟻のような群衆が騒がしく渦巻いているのが見えた。すでに御神酒が染み渡った様子で、ぞろぞろと赤い顔がひしめき合っている。この空間には、村の入り口で感じた物悲しい落魄の気配はなく、むしろ逆に血が沸き立つような神代から続く生命の連鎖が感じられた。



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