価値あるものを求めて




「工学部の図書館では、どんな仕事をするのですか」
「どういうと言っても、本の貸し出しが主な仕事になりますわ。先生方が本の入れ替えに来られる ことが多いのです。工学部の図書館は、文学部の図書館と違って新刊書が続々と入るのです。文学 部の先生は、古い本を後生大事にされるでしょ。それが、工学部の先生は、古い本は役立たないと 言って直ぐに入れ替えをするのです。その作業を行うことも多いですわ」
 棚本が一言質問を発しただけであったのに、彼女の口は馬鹿に軽かった。棚本は気分よく彼女の 顔に視線を向けて、彼女が口を閉じたら質問しようと思う言葉を頭の中でくり返していた。
「そうすると、古い本は、放ってしまうのですか」
 やっと、彼女の口が止まった。しかし、同時に栗山が戻って来てしまった。しかも、栗山は、女 性と棚本の間に無頓着に入り込んできたのである。棚本は仕方なく少し体を後ろに反らして、女性 の顔を見失わないように急遽努力した。
「『古い本は見たくないから、順番に捨ててしまえ』と言われる先生もありますわ」
「へーッ、贅沢なんだなあ」
 棚本は意識的に栗山の存在など眼中に無いと自分の心に言い聞かせながら、彼女に対して気安く 相槌を打った。棚本は、『贅沢なんだなあ』と返答を返した直後、その言葉が気になってきた。
「彼女に、けちだと言う印象を与えはしなかったろうか」
 だが、棚本と女性の会話はそれで停止してしまった。双方に、特別重い沈黙が訪れてしまった。 栗山も、一言も言葉を発しない。棚本は、重い雰囲気から逃れるように本を読み始めた。彼女も テキストの方へ目を移した。
 午後の三時を三十分も回ってしまったが、教官は現れなかった。
「もう、今日は来ないな。こんなところにいても、仕様が無い。帰ろう」
 そう言いながら立ち上がったのは、栗山であった。棚本の心には、何故か、もう少し待ってみた い気持ちがあった。栗山は、棚本の心の中など頓着無くコートを羽織りだした。
「研究室に寄って訊いてみよう」
 栗山は誰にとも無くそう言って、椅子を離れようとした。それを、女性が引き止めた。
「それでは、これ、来週お返ししますから」
「僕は来週出て来れるかどうか分からないから、来年でも良いですよ」
「それでは、来週か、来年までお借りします」
 女性は、丁寧に頭を下げていた。棚本は、女性が栗山の方に近づいてきたとき、一瞬錯覚をした。 彼女が自分の方に話し掛けて来た、と勘違いしてしまったのだ。だから、棚本は、思わず彼女の方 へ視線を向けて顔に笑みまで浮かべてしまった。
「来週は、授業有るのか、分からんな」
 棚本が、気まずさを追い払うために口を挟んだ。
「そうだな。しかし、どちらでも良いよ」
 栗山は棚本にそう応え返すと、棚本など待たずに教室を出て行ってしまった。女性の方は、元の 席に戻った。棚本は、やむなく栗山の後を追わなければならなくなった。しかし、女性が早く身支 度するのを、心の中で強く願った。彼女も自分に同行するように声を掛けたいのである。だから、 棚本はゆっくりコートを羽織ったけれども、彼女の方は、元の椅子に座り込んでしまって一向に動 き出す様子が無かった。棚本は喉元まで声が出掛かったが、結局無言のまま栗山の後を追った。
 栗山と棚本は語学の研究室まで足を伸ばしたが、扉は鍵が掛かっていて教官の来ている様子は無 かった。二人は、いつもと同コースを辿っていつもより早く帰っていくだけであった。もう一週間 もすれば、冬休みとなる。二人の間に、冬休みにはどうするかという話題が上った。その時、栗山 の方から、正月にどこかへ簡単な旅行をする考えが提案された。棚本はそれほど乗る気ではなかっ たが、一応賛同した。それではどこへ出かけるかという課題は、来週の金曜日までに決めてくるこ とに話が決まった。来週のロシア語の時間、休講になってもならなくても、栗山は旅行の相談のた めだけに出てくると言い出したのであった。


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