人類の道




前略 一九六四年十月十九日午後九時半、隣の部屋から聞こえてくるオリンピック放送に読書を妨害され、 施す術なくいらだつ気持ちを癒さんが為にペンを執ったのが、この手紙を始める縁となる。因の方は、夏休 み以来私のしてきた生活に見出されることは言うまでもない。そして、この手紙の内容は、因を語ることを 通じて因を脱する方法を考えることで占められるであろう。

約二ヵ月半もの沈黙の後に、その間に送った生活を再現し、これから行う生活の指針にしようと言う考え だけは、定まっているが、話し声やテレビの騒音で麻痺状態にある頭を抱えて、どう纏め上げていいものか、 構想を練ることは不可能である。

一体この書き始めた文章は、手紙であるにも拘らず、話しかけるべき相手を見出すことが出来ないのは、 感情を整える能力を奪われているからであろう。確かに、この一年来、竹林先生の許には、勝手な手紙ばか りを、何通も書いた。何度も先生の許を訪れる考えを述べても来た。しかしながら私は、読みにくい字で迷 惑な手紙を書き続けるだけであった。私の内部の心は、誰彼となく縁を得た人に己の意志のみで、己の内面 を押し付ける欲求に駆られてきた。今も尚、その欲求の炎は燃え尽きず、火に油を注ぐ試みに移らんとして いる。

同じ一人の人間でも、或る時は親しき存在に、或る時は疎ましき存在にと、静止なき人間心理の波に晒さ れ、竹林先生の存在も、泡・飛沫の中に消えたこともあった。それでも私は、一度自ら結んだ絆は、一時的 な波動で断ち切ることは出来なかった。人間と人間との絆は、切る意志でもっては切りえない、その事実を 原理として持った自己の歩む人生を、はっきり見つめようと意図して、この何日間かこの手紙を書く意志を 暖めてきた。

その熱は、幾度も温まり、幾度も冷めた。そして今は、微温湯の暖かさであるに過ぎない。ここに至って、 私は、温度の高低の波を覚悟し、また、期待しなければならないのだ。

私は、自己の生活を物語ることにより、小説を構成しようとしているのではなく、唯、現実生活を忠実に 描き出し、そこから、思い掛けない意義を抽出しようと考えているに過ぎない。それは、飽くまで、現実人 として生きて行こうと覚悟している人間の告白でもあるのだ。自己を筆に乗せて語るとは、口でもって自己 主張をすることと同様、利己主義を完全に押し通していくことであると自覚した人間が、己を利己主義者と 自覚していながら、利己主義を押し通していかざるを得ない自己の実際に茫然自失した姿を浮き彫りにする のが、この手紙が受け持つ任務であろう。誰に語るともなく語り、しかも、自己を語り尽くすことの出来る ものを、未だ持ち得ていない私は、語るべき相手を、竹林先生なら竹林先生に設定して、それでありながら、 竹林先生に語らざるがごとき手法を用いざるを得ない。実際、言葉遣いの丁寧を慮っていたら、何事も自由 に語りえないであろう。

弁証法的対談を行うには、個性は、障害となることもあり得る。特に、普遍性を期して思索を巡らそうと いう訳ではないが、私事を取り扱うにおいても、他の個性が発する毒物に害されることなく、語る者の個性 を自由に発揮することが出来る点、一方の個性を一時的に根こそぎにすることが、多大な利益を来たすこと もあるのだ。

私は、その利益を漠然とながら予想して筆を執った。後は、その利益を実際に利益として産出することと、 そういう利益活動に利用される竹林先生の承諾を得ておくことが、残されているだけであろう。利益活動は、 これから行うことであり、その承諾は、その活動の前に、得ておかなければならない。

今年、母校の宝蔵高校に起こった異変、竹林校長が校長の職を投げ出されたことと、佐藤宗三先生が突然 亡くなられたことは、私には、家の問題の推移と同様、全く心を揺るがす事件で、その感想の伝え様もない が、現実社会に生きることの難しさ、儚さを併せ持って感じ考えさせてくれる因となった、と述べることは 出来る。瞬時も定まっていることのない感情で、優劣を測る尺度のない感情を価値判断し、判断どおり物事 をなしていこうとする理想主義と必ず対抗する現実は、その現実としての感情を持っており、その感情は、 大抵の人間の気にいるものとなる。

一体、本能と妥協することに関しては、俗物と理想主義者との間には何ら相違はないのだが、妥協すると きの感情が違っているようである。本能を美しいものとして見ているのが理想主義者であり、汚いものとし てみているのが、俗物である。本来本能は自然であり、感情的判断を下されるべきものではないので、どち らの判断も、私は、間違っていると考える。だが、私は、どちらの判断も間違っていると言いながら、どち らかの判断を下すこと自体を、間違っているとは言っていない。私は、本能を肯定・否定する感情に対して も、自然という名で呼び、感情的判断を下すべきではない、と考えたく思っている。つまり、言い換えれば、 本能の否定・肯定を客観的に表現しているのが、感情であると考えたいのである。従って、本能・感情・理性 の間の関係が、より明確になろう。つまり、本能にも理性にも、自ら感情的判断を下すことが出来ず、感情 は、唯、本能と理性との間の関係を、客観的に表現するための尺度に過ぎないということが言えるのであ る。


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