死を憐れむ歌




プロローグ
 若い男が走り寄ってきてドアを開けてくれたので、暖房のきいたロールスロイスの車内に冷気が流れ込んだ。やっと到着したのだ。宮山冴子は瞼を開き、長い脚を伸ばして車から出ると、硬くなった身体をほぐした。
 サングラスをはずし、額にかかった髪をかきあげて大日銀行グループの拠点である総ガラス張りのビルを見上げる。ビルはひときわ高くそびえ、最上階は霧の中にすっぽりと隠れていた。
 車のドアを開けてくれた若い男が彼女を見るなり、そのエレガントな身体の線と優雅な身のこなしに目が眩んだらしく、声をかけるのがはばかられるほど戸惑い、頬を紅潮させた。
「失礼ですが、あなたが宮山冴子さまでしょうか?」と知的な顔立ちに情熱を秘めた彼女に向かって、まだ立ち直れない動揺を隠しながら、丁寧な口調で尋ねた。
「そうです」と目にかぶさった髪をかきあげてにっこりした。「頭取に呼ばれてやってきたのです。遅くなりましたか?」
「いえ、時間どおりです」男はこの気高い女性を警護して頭取室まで案内するのが役目のようだった。「では、どうぞ。頭取がお待ちかねです」と手を大日銀行の玄関口へ伸ばしただけで、玄関を潜るまで言葉はなく、露払いをつとめる男のうしろを黙って従った。
 この大日銀行の玄関口を潜らなければならない。
 そう承知していても、なぜか小鳥のように舞い上がるほどの昂揚感が湧いてこなかった。
 玄関を入ると、いきなり高い丸天井いっぱいに描かれた極彩色の天女の舞う絵に圧倒された。大日銀行だから大日如来にちなんで描かれた天女の舞いなのだろう。光が丸天井に集まるように設計されていて、きらびやかな東洋の宗教画を見るような雰囲気を出しているが、決して宗教画のように暗くはなく、豪華で独創的で、美的センスを満足させるものだった。
 男に導かれるままに頭取専用のエレベーターに乗ると、そこも職人たちの苦心が感じられる四季折々の西陣織に囲まれて、孔雀が大きく羽をひろげていた。彼女は豪華な織物に魅せられている間に、エレベーターは最上階に向かって上昇していった。
 きっと大日証券での彼女の地位のお墨付きを与えるために頭取は呼んだに違いない。堂々と見せなければと、みずからを叱咤したが、胸が高鳴り、うなじの毛が逆立つ。隣の男はこちらの存在を感じているのだろう。彼女にはそれがわかった。一言も言葉を発せず、息遣いだけだが漂ってくる。こういう状況には常に慣れているので、男の視線などに惑わされるようなことはなかった。むしろ冷やかな態度で無視し、羽をひろげた孔雀に目を据えていた。
 玄関を潜ってエレベーターに乗ったことで、気持ちがぐんと落ち着いてきた。さっきまでの戸惑いも躊躇も薄れてきた。自分には大日証券で漠然と日を過ごすわけにはいかないのだ。プライドが高くて、高慢で、嫌な女だと陰口をきかれても、彼女は決して抗わなかった。この手で掴まなければならない野心があったからだ。
 幻覚を見ているような一瞬が過ぎると、エレベーターは最上階に到着して扉が開いた。そこには品のいい和服の老女が待っていた。ここまでが男の役目らしく、老女に彼女を紹介してから、エレベーターの扉が閉まった。
 ここが頭取室らしかった。廊下は分厚いペルシャ絨毯が敷かれていて、老女のあとを歩くとヒールが埋まり、この最上階の宮殿に戸惑いを覚え、すくなからず恐ろしい気持ちも混じっていたが、信念は変わらなかった。
 老女が重い扉を開けると、そこはもっと天井が高く、絢爛たる別世界が広がっていた。あふれるほどの美術品が整然と並んでおり、一瞬、王室に迷い込んだような錯覚を起こしたほどだ。
 柔らかな春の温もりのように空調がきいていて、彼女は周囲の美術品に目を奪われながら歩いたが、人のいる気配は感じられず、耳が痛くなるほど静まり返っていた。
「頭取はどちらですの?」
 老女は返事をせず、黙って背を向け、重い扉を閉めた。
 冴子は深々としたペルシャ絨毯にヒールの踵をとられながら、点々と光に散る美術品を縫って、宮殿を抜足、差し足で、進んだ。
 これほどの静けさを経験したことがないので、静寂は返って耳に疼痛を覚えるほど精神を混乱させた。
 宮山冴子の所属する大日証券では様々な物音にあふれていた。コンピューターのキーを叩く音、混み合うエレベーター、騒音、煙草の煙り、罵声、窓の外からは化学廃棄物の臭いと車の排気ガスとが混ざり合って漂う。サイレンの音は昼夜を問わず耳をつんざいた。
 しばらく歩くと、明るい場所に出たので、まぶしく、そこに人物がいるのに、目が慣れるまで、透明画を見ているようで、じっと立って目を細めていなければならなかった。
「やあ、元気になったようだな」
 ガラス張りの寝椅子に老人が日光浴をしていたらしく、日差しから目覚めたように、首だけを捻ってこちらに向けた。その声には張りがあり、声と同様に若々しかった。
「こちらにきたまえ」
 近寄ると老人はネクタイをはずし、ワイシャツのボタンもはずして逞しい胸を日差しにさらしている。老人にしては引き締まった健康そうな身体つきだった。
「こんな姿で申し訳ない。ともかくその椅子に座ってくれ」
 冴子は老人と向かい合うようにして、反対側に置かれた寝椅子に腰を浮かすようにして座った。
「頭取の鬼村平蔵だ」と穏やかな声が漂った。
 冴子は目を疑った。大日銀行グループの総帥が、この老人とは信じられなかった。白髪ですらりとし、瞳は澄みきって、魅力的であり、鬼平と恐れられている世間の噂とはあまりにも程遠かったので、一瞬呆気にとられ、まるで年を経た自分の父親を見ているような優雅さに魅入られた。
 いつの間にかさきほどの老女がコーヒーを運んできて、寝椅子の前のテーブルに並べると、何処ともなく消えたので、あとには絢爛たる空間だけが広がった。
 頭取は身を起こし、ワイシャツのボタンをはめて身だしなみを整え終わると、煙草をおもむろに金のケースから出して、一望に見渡せる東京の街並を眺めながら、ライターに火を点けた。
「さ、冷めないうちに飲んでくれ」
「では遠慮なく頂戴いたします」
 芳醇な味を楽しんでいる間、頭取の吐き出す煙りは日差しの中で渦巻き、薔薇の香りを漂わせて四方に流れた。
 コーヒーを飲み終わると、頭取はゆっくりと宮山冴子に目を据え、じっと口を開かずに見つめているので、頭取から伝わってくる軽い蝶のようなタッチの愛撫を生地の上から胸に感じた。孫娘のような自分を見つめる老人の見開かれた目はいかにも寂しげだった。東京という大都会にひっそりと生きる華麗で孤独な老人の目だ。
「きみの主人が交通事故で亡くなったのは気の毒だつたな。あれから体調を崩して病院に入っていたそうだが、もういいのかね?」
 冴子は一瞬、細い息を吐いた。思い出すだけでも、暗い奥底の凍りつく穴へ身体が沈んでいくような気分に襲われた。
「ええ、とってもつらい思いをしましたわ」
「うん、そうだろう」
 頭取の探るような視線が首筋、肩、腕、胸の谷間へと這いまわった。
 小さな粒子が自分の回りで澱のようにたまるのを感じて、身を硬くした。部屋は春のような暖かさにもかかわらず、不意に寒気を覚えて両手で自分の身体を抱き締めた。
「何ですの?」と冴子は頭取の引き締まった口元と、刺すような視線をとらえて、何か頭取の注意を引くような服装をしているのだろうかと、さりげない口調で尋ねたが、そこには何かがあった。
「いや」と言って、頭取はうしろに身を反らし、書類を取って、テーブルの上に置いた。「きみの調査だよ」
 その声には不気味な響きがこもっていた。微動だもせず、目の前の女性をじっと見つめる。彼女のほうも息を詰めて頭取を見返した。いったいわたしの何を調べたというのだろう。冴子は訝った。
「何の調査ですの?」と落ち着き払い、何者にも動じないふりをした。
「きみは大阪の出身だったね?」
「ええ」と答えた。頭の中で大阪の街が一瞬、流れた。
「じゃ不動銀行の檜山丈太郎という副頭取を知っているね?」と鬼村は二焦点眼鏡をかけ、口の両端に深い皺を刻んで、調査書をぱらぱらめくってから、眼鏡越しに彼女を露骨な態度で値踏みした。好奇心に燃えた妙な笑顔。……
「檜山副頭取なら知っております」冴子は愕然とし、いささか恐怖を感じて、自分の殻に閉じこもったまま、平静を装った。
「何でも高校生のときに彼と愛人関係だったそうじゃないか? それとも援助交際だつたのかな?」頭取は身をのり出し、無遠慮な目で尋ねた。
 これが彼の力だ。銀行界の頂点に君臨する力。相手が跪いて情けを乞うまで、毒針で刺す力だ。
 冴子は黙っていた。過去に蝕まれて自制心を失った悲しみが心の中でよぎった。自分の心臓とは思えない鼓動がドラムのように高鳴っている。まだ明かそうとしない秘密を思うと、耐え難い不安が彼女の中でふくれ上がった。
「じつは、ある筋から不動銀行が、この大日銀行と合併したいという情報が入っているんだよ」頭取は咳払いし、額にかかった白髪をひと房払いのけた。「その不動銀行をきみに探って欲しいんだ」
「このわたしが、ですか?」一瞬、自分の座っている建物が崩れて落ちていくような錯覚にとらわれた。
「ああ、そうだ。何でも檜山副頭取がきみを欲しがっているそうだからね」
「檜山副頭取が、ですか?」冴子は檜山丈太郎とふたたび会うのは耐えられなかったが、一年間も入院生活を送ってきたのに解雇されずにいる負目があった。
「わたしにスパイをしろとおっしゃっているんですね?」冴子は信じられないといった目で探るように頭取の顔を見据えた。
「その通りだよ」頭取はゆっくりとひと呼吸分、間をあけてから、静かな笑顔をつくった。そうすることで大日銀行の恩を返せと言わんばかりの口調が暗に言外の意味をにじませていた。
 冴子は皮肉めいた頭取の薄笑いを見ながら、頭取の策謀は綿密かつ知能的で、しかも単刀直入だっただけに、自分が罠によって誘い込まれたことは確かだが、どのくらい現実を理解しているのか確信がなく、ただ音のない底なしの沈黙の中で凝縮された過去をまざまざと蘇らせていた。頭取の薄笑いがほかの誰も知らないきみの弱みを知っているぞ、と語りかけているかのように、じっと探るような好奇の眼差は揺るぐことがなかった。
 頭取の言葉が沈黙の中へと閉ざされ、冴子はとほうもなく遠い存在へと目を向けていた。
 これは大日銀行グループの総帥の命令だ。一度決意を固めた頭取から逃げ出すのは、決意を固めた虎から逃げ出すのと同じぐらい困難なことだった。
「わかりました」冴子は破滅的な常套句のように頭取の絶対命令から逃れられない自分を感じながら、声は塵のように漂い、喉は粉のように渇いていた。従うしかない。従順に。
「わたしからきみに伝えたいことは以上だ」
 冴子は全身にひろがるおぞましい過去の屈辱に屈しながらも、心のどこかで不動銀行との合併というプレッシャーの重みと、この合併が成功したら、それ相当の地位を約束してくれるだろうという淡い期待が潜んでいた。その誇らしい自分の姿を頭に描いて、ただ謙虚に一礼して頭取室の扉を開けた。ふと背後で嘲笑に彩られた深味のある音楽的な笑い声が聞こえたように思った。
 ふたたび老女にエレベーターまで先導され、先ほどの若い男の待つエレベーターに乗って最上階から地上に下りた。頭取の声が顔のまわりで破裂し、その血が身体の中でどす黒く色を変えてうねっていた。
 玄関口で待機しているロールスロイスの車を断り、ともかく歩いた。視力も聴覚もなくして、気が違ったように、猛然と人混みの中を突進するように突き進んだ。
 にぎやかな街の風景が目に映ったとき、いったい自分がどこを歩いているのだろうか、と人の流れに目をしばだたいて、冷たい空気に白い息を吐いた。大日銀行を出たあとの記憶をどんなに思い出そうとしても頭の中は完全に溶暗していた。
 現実の自分は遥か彼方の東京にいる。高校を卒業したときから大阪を捨てたのだ。いまはもう大阪は異郷の地でしかない。そこには父がいて、異母姉妹の繭子がいて、ときどき父の近況を伝える彼女の手紙を読む。それとても、せいぜい自分の心の渇きを癒す程度で、故郷と呼べるのはこの東京でしかなかった。大阪は父と繭子の街で、わたしの街ではない。
 罪、不安、抑圧にゆがめられた過去へ。意識が散漫になる。その過去へ戻るなど、あまりにも悲しすぎる。……


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